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想像力も創造力も枯らしてはいけない、お前はお前の人生を生きるしかない

小さい頃は裏が白いチラシがあると嬉しかった。落書きができるからだ。小さい頃はカレンダーの裏が嬉しかった。大きくて白い紙は落書きもできる。丸めれば剣にもなる、大きな紙飛行機にもなる。とにかくただの紙も遊びのための素晴らしい道具になっていた。外に出たら虫を捕まえて、自慢をしたり、木の棒が落ちていたら、名前を付けたりして剣にしていた。

今はどうだろう。白い紙を見てもせいぜいtodoリストくらいしか書かないんじゃないか。カレンダーを見ても予定くらいしか書かないんじゃないか。いつから絵を描かなくなった?いつからアホみたいな文章を書かなくなった?いつからカレンダーを丸めなくなった?いつから紙に連絡事項しか書かなくなった?

ある程度大人になると、みんな自分の限界をわかってしまう。ああ、私は勉強を頑張ってもこのくらいが限界なのかなとか、運動を頑張ってもトップにはいけないなとか、そういう経験をしながら大人になって、自分の適性とか、できることを考えて仕事についていく。

大抵の仕事は何かを生産したり、何かのサービスを提供するために時間を使うことになる。誰かが作った日本円を効率よく稼ぐための素晴らしい仕組み。その仕組みの中で1日のほとんどを過ごすことになる。「効率」や「正しさ」が求められる世界では、失敗する可能性のある、何の役にも立たない落書きの時間が、真っ先に削られていく。

その結果、白い紙を見ても、何も書かなくなる。必要なことしか書かなくなる。

それでいいのか?

確かに、絵を描いたところで画家と比べたら、ポンコツな絵しか描けないかもしれない。くそみたいな構図で、ミミズみたいな線で、情けないかもしれない。確かに、文章を書いたところで誰も評価してくれないかもしれない。賞を取るような文章は書けないし、人前に見せたら誤字脱字・表現のミスがあって笑われるかもしれない。

でも、小さい頃はそんなことを気にしていなかった。絵でも文章でも好きなことを書きたいように書いていた。それが楽しかった。

俺はこのブログが楽しくて書いている。ブログのサブタイトルにらくがきちょうと名前をつけているのも、アイキャッチ画像をつけていないのも、画像を挿入しないのも、狙ってやっている。

そろそろ小さい頃の感覚を取り戻したくないか?木の棒を見たら、どんな剣になるか想像したり、石を見たら、蹴りやすい石かどうかとか考えてみたくないか?

もううんざりだ。最近はずっと、白い紙を見ても何も書けなかった自分に失望している。

絶対に想像力、創造力、枯らしてはいけない。別にこれらがなくても生きていける。おむすびがあれば生きていける。

でも楽しく生きるには創り上げる力が欲しい。作るのは別に絵でも文章でもなくて、料理でも動画でも音楽でも詩でも短歌でも俳句でも迷路とか編み物とかでもなんでもいい。とにかく何かを作るんだ。生きてた証を少しでも残すんだ。

本当に1日のうちに1回、それができなくても、1週間のうちに1回くらいは小さい頃みたいに何かを夢中になって作る時間が必要な気がする。

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この記事を書いた人

一生懸命生きています。

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